自身の表現
SNSを見ていて、そんな発言して欲しくなかったなどと言われるような発言をしているアカウントをよく見かけます。
そしてその発言をした本人は表現の自由だ、思ったことを言って何が悪い、言いたいこと言えないっておかしくないかという意見を言っています。
この現象について構造を考えてみましょう。
まずは発言の効果から。
例えば筋トレで名のしれたTwitterのアカウントなどがあったとします。
本質で言えば筋トレ関連だけ呟いてくれていたからフォロワーは増えたわけで、フォロワーの属性は筋トレ属性のみです。
ここで例えば政治的に偏った発言をしたとしましょう。
この瞬間に筋トレ×政治サイドという属性の掛け算になります。
したがって、筋トレという情報濃度は低下するもしくはその政治サイドのミスマッチにより、この掛け算によってフォロワーの中の一定数を切り捨てることになるのです。
これは簡単な話ですね。ネット検索の時に検索ワードを増やした方がヒット件数が減って見つけやすくなるのと似たような構造だと思います。
それを意図的に行うのであればとても良い手法でありましょう。
効果についてはこの辺にして、この発言への行動原理に対して解釈してみましょう。
おそらく発言者はアカウントを自己同一視していると思います。
すなわち、アカウント=自分と捉えているわけです。その表れとして、自身の思考のすべてを表現しても問題ないだろうと考えるのだと思います。
しかし、そんなことないですよね。だって、アカウントは自己を表現する場ではあっても自己の情報の一部しかでしかないのですから。しかも、フィルターが多分にかかった情報しか載せていないわけであります。したがって、アカウントはペルソナの一つで、見せたい自分の一側面でしかないというわけです。
その一側面が自己の思考を全て発信する場と考えなくて良いのは自然な発想でしょう。
つまり、そのアカウントの情報範囲をしっかりと認識して発信していくのがアカウントの人格を尊重した行動であり、その人格に従うフォロワーへのコミュニケーションのベースになるのだと思います。
以上より、その辺の弁えがある人にとってはなんてことのない話ですが、炎上というのはよくこういったことから発生していることを考えると、発言内容のフォロワーレスポンスに関する指標を置いて発信、受信の情報が適切にマッチングされる仕組みを作ることがSNSにおいては重要な機能の一つになるのではないかと感じます。